現在の徳守神社の大神輿巡幸に欠かせないのが、大神輿(御霊代)の進路の邪気を払い清める神田の獅子練りだ。雄(黒)、雌(赤)の獅子と大神輿とのコントラストは見事で巡幸最大の見所ともいえる。この神田の獅子練りを紹介するには、まず徳守神社と神田との歴史を振り返らなければならない。
 奈良時代の天平5年(733)勧請の徳守神社は小田中にあり、その後、津山城下総鎮守として現在の地に遷宮した津山初代藩主・森忠政が慶長9年(1604)に徳守神社社領として当時の西北条郡小田中村神田の内70石を寄進したのが始まりで、まさに津山まつり400年の歴史と神田の歴史は同一といって過言ではない。
 徳守神社誌(大正2年、矢吹金一郎著)によると「秋季御大祭ノ日、神輿ハ大古ヨリ新田(神田)村ノ御氏子之ヲ舁行奉、戸川町ハ猿田彦命ニ模擬シテ御先駆ヲナシ、其他ノ御氏子ハ、毎町適意ノ練物ヲ出シテ御幸ノ供奉ヲナスコト慶長以後ノ慣例」云々とあり、慶長(〜1615年)から神輿の巡幸があり、当時から小田中神田の若者が輿丁(よちょう)、戸川町がその先駆けを務めていたことが伝えられている。寛文4年(1664)には木知ヶ原町(後の堺町)の氏子によって神輿が奉納され、文化6年(1809)に現在の大神輿へ仕替えが行われている。そして、この大神輿は城下町の氏子ではなく神田村の村人のみが担ぐことが許され、輿丁は神田村の村人のみという仕来たりが定着した。
 しかし城下町の氏子にとってみれば、祭りの華である大神輿を担ぎたいのは、当たり前のことで天保5年(1834)、町方の者が多数押し寄せ、安岡町あたりで群集となって押し合った結果、大坂屋の格子を傷つけ翌日、村役人が詫びに行くなどの騒ぎになった。翌年、天保6年に神田村は、町方のものが神輿に手を出さないように取締りを町奉行所に願い出て、町奉行所は町方の者が勢いで担ぐことを禁止する触書きを出している。
 こういったことは、稀ではなく明治なっても神輿を奪い取るといった事件が発生しており、その背景にはだれでもが神輿を担ぐことができないという祭りの伝統があった。この伝統は現在の神輿準備にも残っており、神田の人たち以外が神輿の飾り付けを行うことは許されず、文化6年(1809)から津山で唯一大神輿の屋根やその他の場所に上り、手や足を付けることのできる特別な人たちだ。
 しかし、360年余りの長きに渡って輿丁を務めてきた神田も地域の人口減もあり、昭和40年代ついに神田の人々だけでは大神輿が担げなくなり、一時は台車に載せ巡幸するなど寂しい状態になったが、氏子町内や昭和33年(1958)に設立された津山青年会議所などが中心となり復活。氏子町内でつくる奉賛会がその役目を受け継いだ。昭和54年(1979)には神田のかつて輿丁を務めた5、60代のOB約30人が奉賛会へ感謝の意を込めて肩を入れるなど粋な話も残り神田の誇りは今も脈々と地域で受け継がれている。
 神田の誇りには輿丁のほかに伝承してきた獅子練りがあり、現在も地域で大切に守られている。獅子練りは慶長の数百年前から美作国に伝播しており、徳守神社遷宮と同時に行われてきたとしても不思議ではないが、神田の獅子練りがいつから行われていたかは現時点では定かではない。口伝では、明治期には既に行われていたようである。
 練習は祭りの数週間前から始まり、神社の所有物である獅子頭を使用する為、伝統的に神社拝殿で行われている。獅子頭の重さは約5キロで頭1人、胴体2人、尻尾1人の4人で1体の獅子を担当する。笛、太鼓にあわせ、雄雌の動きを統一させ緩急織り交ぜた獅子練りを祭り本番へ向け完成させていく。神田の獅子練りは笛方、太鼓方、獅子と役割は相伝する場合が多く、親の姿を見てその子供たちも自然に親の担当していた役に就いていくそうだ。笛方の篠笛も手作りで作り方も指導されるわけではなく見様見真似だという。静寂の中にある夜の拝殿に響く囃子と指導の声が城下総鎮守の祭りが近づいたことを教えてくれる。
 祭り当日は朝6時半から神輿の準備を行い発輿祭に続き、神輿の準備が整ったところで拝殿で練った後、一気に神輿の左右を駆け抜け、神輿の進路の邪気を払い清めるため前に出て囃子方(笛、太鼓)とあわせ約30人の編成で神輿とともに城西を練る。
 祭り当日の獅子練り見物のポイントは、神輿の進行方向で獅子を手前から見て雄(黒)は右、雌(赤)は左側で、男性は黒、女性は赤の獅子に噛まれると良いとされている。また獅子は邪気とじゃれ合い、そして攻撃して払う(清める)という動きを見せながら練っており、赤黒の前へ出るとき、退がる時の息の合った動きや、練っている時の口の閉め方、頭の位置を見れば錬度が分かる。熟練であればあるほど口は閉まり、頭の位置は低くなる。長丁場であるためしっかり口を閉め、腰より低い位置から頭を持ち上げることが、熟練でなければできなくなるという。
 多くの民俗文化財が姿を消し、時間の経過とともに復活もままならない今日、400年という長きにわたり津山の祭りを支えてきた誇りと心意気が反映された神田の獅子練りは、ゆかりの大神輿とともに、かつて津山の先人たちも見た風景を鮮やかによみがえさせる郷土の貴重な財産であり、神田地区の人たちが担ってきた祭りでの役割を考えるとき、単純に地域の財産とするのではなく、津山市全体の財産として、市の重要無形民俗文化財などの指定も視野に行政も一体となった保護、伝承活動を行い後世に伝えていくべきではないかと思う。

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