大神輿200年祭、その歴史と御幸行出発まで


 徳守神社大神輿は文化6年(1809)に造られ平成21年(2009)で200年祭を迎えた。先代は寛文4年(1664)には木知ヶ原町(後の堺町)の氏子によって奉納された。これより前、徳守神社の遷宮直後からどのようなものかは不明だが、神輿の巡幸はあったようで、慶長期から神田の若者が輿丁、戸川町がその先達(先駆け)を務めていたと徳守神社誌(大正2年、矢吹金一郎著)にある。
 現在見られる御幸行は寛文4年(1664)に森家二代藩主、長継の意向で西松原に設けられた御旅所への御幸行が始まりとされ、350年の時を経て今も脈々と受け継がれている。
慶長から、先達を務めた戸川町
鼻高の装束(天保12年・1841)
大みこし記された新調時の
裏書(文化6年・1809)
慶長から360年余り輿丁を務めてきた
神田の獅子練り

 現在、徳守神社大神輿の担ぎ手は、360年余り輿丁を務めてきた神田地区から氏子町内等でつくる奉賛会が昭和40年代後半に受け継いだ。奉賛会は祭りの数週間前から高山会長(平成20年現在)を中心に寄合を重ねて準備を進め、この寄合が現在の大神輿巡幸を支えている。輿丁の移行は昭和40年(1965)に神田の担ぎ手不足から台車=写真左=に乗せての巡幸となり、昭和46年(1971)に津山青年会議所の音頭で若者120人を集め担いでの巡幸を復活させたことによる。この時、8メートルの輿棒が台車に載せるため短く切られており、この長さの檜は市内になく阿波村(現在は津山市)で見つけ取り寄せたという。
 徳守神社の祭礼は宵宮から始まり国家安泰・氏子安穏を願う祈祷、さらに祭りが無事に終わるようにという意の祝詞があげられる。大神輿は保管庫から台車で拝殿前へと移動、氏子らが一年ぶりの優美な姿を楽しみながら参拝する姿が見られ、だんじりも次々に出動報告と安全を祈願し宵の城西地区へ消えていく。神社横の徳守会館では奉賛会も翌日の大神輿出発のため最後の寄合で準備に追われ、宵祭り独特の雰囲気を持った夜が更けていく。
 江戸時代は元魚町、二階町、鍛冶町、戸川町、上紺屋町、宮脇町、細工町、材木町の8町の関貫(かんぬき、町と町との間に設けられた木戸。元禄10年(1697)には54カ所あった)を九時(ここのつ、午前零時)まで開いておくことが、宵、本祭りの慣例になっており、城下が遅くまでにぎわっていたことが分かる。
 その徳守神社の宵宮について、赤穂浪士四十七士の一人である神崎与五郎則休が、討ち入りの数カ月前、元禄15年9月18日夜(1702年10月18日)に江戸から数日後に行われるであろう故郷の祭りを思い浮かべて詠んだ一首を紹介する。


 海山は中にありとも神垣のへたてぬ影や
 秋の夜の月


 与五郎は寛文6年(1666)、森家家臣の神崎又市光則の長男として津山に生まれ少青年期を過ごした後、赤穂の浅野家に仕官した。浅野家中きっての俳人として知られたが、江戸では、扇子売りの商人「美作屋善兵衛」を名乗り討ち入りの機をうかがった。徳守神社を深く信仰していた与五郎が知る宵の風景は今も津山の誇りとして守り受け継がれている。
写真=宵宮から始まる祭礼。国家安泰・氏子安穏を願う祈祷などがあげられる
写真=寄合を重ねて準備を進める奉賛会

 本祭り当日の朝、午前6時を過ぎると朝靄のかかった徳守神社拝殿前に続々と集まってくる人たちがいる。360年余り輿丁を務めてきた神田地区や奉賛会などの人たちだ。平成20年(2008)からは安全祈願=写真左下=が執り行われ、保管用の台車からウマ(置き台)へと移され=写真右下=、神田の人たちのみに許された飾り付けが行なわれる。>>詳しく

発輿祭
 本殿から輿まで、御霊代の通り道に白布が敷かれた後、祝詞。持物奉持が告げられると神職全員に緊張がみなぎり、境内で様子を見守る多くの参拝者のざわつきも、一瞬静まりかえる。大弊、御剣(禰宜)などに守られて、御霊代(宮司)が内陣から輿へと厳かに進んでいく=写真左上=。拝殿から輿へと渡された道板の両側ではウォ〜という声(警蹕)と鉾が衝かれ輿丁も大鈴を鳴り響かせる。その中を宮司により御霊代が輿に移される=写真右上=。その瞬間から輿丁らは輿の重さが変わり御霊代の重みを感じると口をそろえる。

発輿祭が済むと、輿丁らは直ちに出発の準備に取り掛かる。輿棒・横木は麻縄できつく締め付けられ麻縄はお神酒をかけて湿らせる=写真右上=。お神酒をかけた麻縄は乾くほどに締まってくるという。取り付けられる輿棒は左右1本の計2本(長さ8メートル)、横木は前後に4本の計8本(長さ2・5メートル)。
徳守神社を出発する大神輿=写真上=。重さ300貫(1トン超)の大神輿は現在、約150人の輿丁が赤組、白組に別れ氏子町内を午前11時半から午後7時半まで8時間を掛け勇壮に練る。写真下は鳥居から出た大神輿
出発した大神輿を迎えるため福渡町で待機していただんじり17臺の前を通り過ぎる大神輿(平成21年)
宮司は昭和50年代前半までは馬上だったが、馬がカラー舗装などに足を滑らせ危険なため、現在は人力車となっている

戸川町「鼻高」
徳守神社誌(大正2年、矢吹金一郎著)によると「秋季御大祭ノ日、神輿ハ大古ヨリ新田(神田)村ノ御氏子之ヲ舁行奉、戸川町ハ猿田彦命ニ模擬シテ御先駆ヲナシ、其他ノ御氏子ハ、毎町適意ノ練物ヲ出シテ御幸ノ供奉ヲナスコト慶長以後ノ慣例」云々とあり、慶長(〜1615年)から神輿の巡幸があり、当時から戸川町がその先達を務めていたことが伝えられている。
平成20年、戸川町で披露された御鼻面(おはな)と呼ばれる面、装束、鉾は、箱書きに天保12年(1841)とあり城下町形成以前から続く戸川町の歴史を感じることができる。言い伝えでは、この鼻高の先達の栄に浴した人はその1年間無病息災で当時は多数の応募があり選ばれていたという。
天保12年と記された箱書き=写真左上=と戸川町のだんじり群龍臺(弘化3年・1846)の鬼板にも鼻高=写真右上=が施されており、現在も戸川町の持つ祭りの伝統の一端を見ることが出来る。現在は一般の女性が務めることが多くなった鼻高=写真右=。

巫女舞


平成11年(1999)から新たに行列に加わった。巫女舞は神楽の舞の一つで小学校5、6年の女子児童が務める。大神輿200年祭の平成21年は巫女舞も10周年の節目を迎えた。西松原をはじめ各御旅所で舞を披露し氏子から喜ばれている。

神田の獅子練り││大神輿-平成の大修復
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