津山城下の総鎮守・徳守神社の祭りに各町内が練り物(現在のだんじりにつながっていく)を出すのは、慶長以来の慣わしだが、坪井町と祭りとの歴史も町の成立とともに始まり、340年前の寛文7年(1667)には石引の練り物を出したことが記録に残っている。個々の練り物の内容が記録に残っているものでは最古の町内の一つだ。しかし、この年の祭りでいざこざが発生し城下の練り物が以後、40年間禁じられる。森氏の後、松平氏初代の宣富が宝永3年(1706)に復活させると同時に藩主も津山城の一角から祭り見物を行うようになった。
 40年ぶりの練り物復活に勢いを増した坪井町は、正徳2年(1712)の記録によると当時最大規模の総勢62人で布袋屋台を曳き出している。それから100年後の文化9年(1813)には小ぶりの神輿太鼓を出している。この時の記録に「子供仕立大人付添 坪井町」とあり、200年前の坪井町に祭りは年齢に関係なく楽しむものと、現在の子供たちが乗る津山だんじりに通じる考えが既にあったことが注目される。
 また現在の祭りの時に各町内で見られる高張挑灯だが、初めて使用されたのは寛政元年(1789)で14カ町の辻1カ所に掲げられたのだが、もちろん初めて使用した14カ町の中に坪井町の名前が見え、現在の津山まつりの伝統を作ってきた町内の一つであることは間違いない。
 天保13年(1842)、祭りに出動するだんじりの数に制限が設けられ徳守神社が6臺と決められた。年番制となってから坪井町と一緒にだんじりを出した町内は、安政5年(1858)でみると鍛冶町、船頭町、材木町、伏見町、西今町となっており、統一イベント会場で「安政の年番順」に各だんじりを並ばせるのも歴史を振り返る上で面白いかもしれない。
 「坪井町の歩み」(昭和44年・今井三郎著)によると坪井町は弘化元年(1844)に神輿太鼓(現在のだんじりの原型)を新調し費用は479匁とあり、現在の龍珠臺は、明治4年(1871)の夏に新調され、町内から18貫610匁を集めている。藩への許可が不要となり何百年もかけ祭りにかける意気込みを蓄積してきた坪井町は、予算内で我慢できず、いろいろ注文をつけたのだろう工匠の平間美濃三郎(美之助)への最終的な支払いが20貫を超え不足が生じている。ちなみに平間美濃三郎の出身地である小豆島は天保8年(1837)から津山藩領となり、現在、小豆島の土庄町と津山市は歴史友好都市縁組を結び交流を続けている。
 前述したように子供と大人がともに祭りを楽しむ伝統のある坪井町だが、さらに注目したいのは龍珠臺の彫りに志度寺伝説「海士の珠取」を採用していることだ。
 我が子のために命を懸けた母親の伝説を施した龍珠臺は津山で唯一、懸魚に女性(海士)が彫り込まれただんじりで、平成の現在も曳き手には、我が子を思う坪井町の母親たちが多く見られ、だんじりに乗った子供たちを母親たちとともに厳しい顔をした海士が力強く見守り続けている。=写真上
 400年近い歴史のなかで坪井町が年齢、性別に偏ることなく、町内のだれもが楽しめる祭りを作り上げてきたことが分かる平成20年衆望壱番臺・龍珠臺だ。
懸魚の海士と束の間の龍宮城(右が見送り)
見えるところだけでなく天井の龍・乱濤(左)など予算オーバーの20貫を超える建造費を投じた龍珠臺

志度寺伝説「海士の珠取」

 唐の第3代皇帝・高宗から贈られた3つの宝の内、龍神に奪われた宝珠(面向不背の珠)を取り戻す為、志度之浦へ赴いた藤原不比等は土地の海人と契り、一子(藤原房前)をもうける。その子を藤原家の後継にと約束を交わし宝珠奪還の為、海人は海中深く飛び込み龍宮城で宝珠を取り戻すが、我が子の為に命を賭けた海人は傷つき死んでしまう。後年、大臣となった房前は志度之浦を訪れ石塔を建て母親を供養したという伝説。


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