「津山だんじり保存会館」で長提灯をタイトルデザインの一部として採用してる簾珠臺(宮脇町)は、現存する津山だんじりで最古とされる文政3年(1820)の作で、約190年の時を経て尚、現役で津山まつりに華を添え、往時の津山を今に伝えています。
 この宮脇町の簾珠臺が造られた文政がどのような時代だったのか、少し振り返ってみたいと思います。
 文政(1818〜1829年)は、第8代将軍徳川吉宗の曾孫にあたる第11代、徳川家斉の時代で、この家斉の第16子、松平斉民が津山藩の第8代藩主となります。
 斉民は、文政7年(1824)に家斉から一字を与えられた第7代藩主、斉孝の娘・從(より)と同12年(1829)に結婚。しかし從が亡くなったため、斉孝の弟・維賢の娘と再婚し、家督を譲られて藩主となりました。
 家斉の意向もあり、文政元年(文化15・1818)、5万石となっていた藩領が斉孝の代で10万石へと復活しました。当時、森氏18万6千石から3分の1以下の藩領となっていたため上之町の武家屋敷は空き屋敷ばかりだったのですが、この文政の10万石復活で上之町も活気を取り戻したと伝わっています。
 簾珠臺が造られる前年の文政2年(1819)には医学習得に励んでいた藩医・箕作阮甫が京都での修行を終え津山に戻ってきます。同6年(1823)には、斉孝の供で江戸に行き、同じく藩医の宇田川玄真に学び、洋学(蘭学)の研鑚を重ねていきます。その後、幕臣となった阮甫は日本最初の医学雑誌「泰西名医彙講」をはじめ、「外科必読」「産科簡明」「和蘭文典」などさまざまな分野で訳述書を多数手掛けます。
 ちなみにこの阮甫が生まれた西新町は、先程の上之町の南に位置し大隅神社の祭礼に見事な彫りの龍宝臺(県重文)を曳き出します。また、大隅神社関係の全てのだんじりは旧出雲街道沿いにある西新町の箕作阮甫旧宅(国指定史跡)の前を練り、情緒ある町並みとだんじりのコントラストが映えます。余談ですが阮甫はこの旧宅で13年間過ごし徳守神社の群龍臺(県重文)のある戸川町へ移り住みます。
 さらに話がずれてしまいますが、明治維新期に優れた人材を送り出した適塾で有名な緒方洪庵は、宇田川玄真の孫弟子にあたり、学統は津山洋学に属します。
 また文化・文政期、庶民の間では「万人講」という現在の自治宝くじにあたるようなものが頻繁に開かれ、宮川が吉井川に合流する(材木町)あたりの河原に多くの人々を集め大変な賑わいだったそうです。
西新町の箕作阮甫旧宅(国指定史跡)

 徳川将軍家から津山・松平家が養嗣子を迎え10万石に復活、箕作阮甫が江戸へ出てその名を馳せる、このような時代に造られた簾珠臺が、宮脇町の人々に代々守られ、私たちはその優美な姿と当時を重ね見ることができます。
 往時の津山を今に伝える簾珠臺は、子供たちの「ソーヤレ」の掛け声とともに今も現役で城西地区を練り、190年経った現在、そして未来の津山を見守り続けます。


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