西松原の松並木=戦中の供用(昭和18年4月・1943)で失う
荷馬車台を台車として出動していた昭和32年(1957)の集合写真(右)

 津山2代藩主・森長継(ながつぐ)が徳守神社社殿を再建立した寛文4年(1664)、現在の大神輿の先代神輿が木知ヶ原町(後の堺町)から奉納され、長継の意向で西松原に設けられた御旅所への御幸行が始まり、この時から各氏子町内の練り物が神輿に随行することが慣例となった。
 すなわち西松原は400年の祭りの歴史の中で初期から関わりを持つ町内といえる。町の歴史は延宝8年(1680)に城下の手前となる紫竹川のほとりから二宮まで道の両側に計500本を超える松並木で街道が整備され、松平藩時代の天保2年(1831)にも240本が植え継ぎされ城下へと繋がる景観が整えられた。
 その松は平成7年(1995)に新調=右は初出動時の集合写真=した翔龍臺の彫りにも見られ、町内の歴史と誇りを伝えている。西松原の山車については、昭和3年(1928)の御大典から荷馬車台を台車に転用して出動していた記録が町内に残っており、80年を超える長い歴史がある。
 西松原の公会堂には、先代から欠けることのない出動記念写真がずらりと並び、その数に驚くと同時に圧倒される。翔龍臺新調後も毎年出動を続けており、その理由を松田町内会長(平成21年出動時)に尋ねると「祭りへの思いはどこの町内にも負けない。その思いが毎年出動する原動力となり、町内の誇りともなっている」と笑う。町内の心意気は翔龍臺新調時にも見られ、保管庫=写真右=新築と併せた莫大な費用は、積み立てなどではなく約1年の期間で集め、寄付金額も一律で町内の誰が多い少ないなどの差を作らなかったことにより、本当の意味で「翔龍臺は町内の誇りであり宝物」になったと教えられた。
 どんなに出動台数が少なく寂しい祭りでも、当たり前のように西松原の山車は出動し、観客を喜ばせ、華を添えてくれる。出動に必要な労力、費用…、決して当たり前ではない町内の努力に私たちは気付き、感謝しなければならない。
 さらに寛文4年から御旅所を守る西松原は、徳守神社の大神輿でも輿丁責任者(後藤氏・21年現在)など大きな役割を果たしており、両輪で祭りを支えている。
 先代の時、「山車の屋根に上らせてほしい」とある地元テレビ局に頼まれ、その理由を訊ねると周りの文化財だんじりを撮影したいからだと自分たちは相手にもされなかった。誇りを傷つけられても、祭りのPRのためならと快く撮影を許可し、先代まで約70年間の“飾り”期間に蓄積した西松原の思いを受け継ぐ翔龍臺だからこそ、他のだんじりに負けない存在感を作れるのだろう。
 順列を整え、統一された曳き手の身形は格好良く、乱れがちな押し役(子どもの介添え役)もきっちりと法被でそろえ、決して曳き手に混じらせない。ここまでしっかりとした連(れん=曳き手、乗り子らの総称)を維持する姿勢が、平成21年「衆望壱番臺」の背景にある。
 徳守神社本祭り当日、多くの文化財だんじりの屋根役が、赤い団扇を手にパフォーマンスを見せる中、翔龍臺の屋根役は股棒を持ち、頑ななまでに「津山だんじり」本来の伝統を守っていた。西松原の真髄ここにあり、と誇らんばかりの格好良さだった。寛文4年、そして昭和3年からの思いを乗せた翔龍臺が切り拓く道には、市内50を超える新造町内の期待が掛かっている。
平成21年出動時の翔龍臺
昭和63年の集合写真(左)と先代最後の出動時の集合写真

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